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旧 筬島大橋.jpg

​筬島大橋

橋架設以前の交通

 1908年(明治41年)の入植以降、筬島地区には天塩川を渡る橋が長らく存在せず、地域外との交通は渡船が中心でした。大正初期に筬島地区と国道40号線物満内地区とを結ぶ「筬島渡船場」が開業し、農産物や資材の運搬、小学生の登下校は全て船によって行われていました。筬島から6km先の音威子府市街まで行くのに、4回も船を乗り換える必要があったそうです。

​ また、天塩川が凍結する冬季の間は船が通行できないため、川の氷雪を補強して作る「氷橋(こおりばし)」が架けられた。筬島付近は条件が悪かったため、地区総出で上流の川岸の氷を切りロープなどで引っ張って継ぎ合わせる方法をとっていました。当時の住民の話によれば、20〜30人の住民が協力して幅10m・長さ100〜150mほどの氷を切り出したと言い、時には失敗してしまい氷が張り直すのを待っていたようです。

 毎年12月下旬から1月上旬にかけて作り上げ、融雪期の3月下旬から4月上旬まで使われ続けました。特に雪解けが近い時期は氷橋が薄くなって足元まで水が乗るようになり、子供たちは必死の思いで登下校していたと言います。また、氷橋ができる前や橋が落ちた後の数日間は、氷が川に残り船も通えないため交通が寸断されていました。

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​氷橋を作っている様子(撮影時期不明)

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筬島橋の完成

 昭和に入ってからも渡船と氷橋は変わらず使われてきたが、天塩川の増水時や氷結期、それに雪解けの時期になると通行止めとなってしまい、小学校の対岸に住む児童が通学できないということが年に50日も発生していました。実際、1955年(昭和30年)には通学時に川を渡る不便を無くすため、筬島地区の対岸にある上物満内地区に分校(のちに小学校に昇格)が建てられています。また、渡船による水運事故も度々発生し、大正7年の転覆事故では死者も発生しています。

 こうした現状を改善すべく、1961年(昭和36年)2月に物満内地区天塩川両岸居住者55名の連名による「筬島橋架設請願書」が提出され、村・村議会一丸の運動の甲斐あって1965年(昭和40年)より筬島橋が着工しました。そして2年後の1967年(昭和42年)12月21日、ついに筬島橋(長さ122.2m)が完成しました。

 入植から約60年、筬島地区の悲願であった陸上交通の充実がここに叶い、渡船と氷橋はその役目を終え村から姿を消しました。

 

​筬島橋(撮影時期不明)

筬島橋から筬島大橋へ

 住民の大きな期待を背負って開通した筬島橋であったが、上部が木造の作りであったこともあり、年を追って老朽化が急速に進んでしまいました。その頃、筬島橋が接続する国道40号線では、増水・氾濫を繰り返す天塩川の築堤工事が昭和49年頃から進み、堤防の嵩上げが行われていました。

 これに合わせる形で、昭和50年6月より筬島橋に代わる新しい永久橋「筬島大橋」(長さ253m)の建設が始まり、昭和54年11月13日に竣工しました。筬島大橋は筬島橋よりも下流側に建て替えられており、筬島大橋から東側を見ると筬島橋の土台の遺構がわずかに残っています。

筬島大橋の橋架工事の様子(撮影時期不明)

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渡船のしくみ
  • ロクロ

    • ​​ワイヤーを巻き緊める装置、筬島側に設置した。

  • 滑車

    • ​初期の頃は一個の滑車であったが、後に二個連結滑車となった。

  • 船の進め方

    • ​水圧を利用して進めた。進行方向が変わる時は環の位置が変わるだけで良いことになる。

  • 支柱のハシゴ

    • ​滑車に油をぬるため、支柱に梯子が取り付けられていた。

(画像・文章共に『筬島小学校廃校記念誌』より引用)

氷橋の作り方

・一図

  1. ①の部分を踏み固めて丈夫にする

  2. ------線をノコで切る

  3. ②の部分を流す

  4. ③に穴をあけ、丸太を差しこんで支点にする

  5. ↑端の方からハサ木や棒で押し出す

・二図

6.(A)通り路にシバなどを敷いて補強する

.(B)氷と岸の雪面が弱いので、鳥居を組んで補強する。

(画像・文章共に『筬島小学校廃校記念誌』より引用)

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