筬島地区の歴史
筬島地区を上空から撮影した写真。
撮影時期は不明だが、1970年〜1978年頃のものだと思われる。
1907年(明治40年) ●物満内鬼刺川口に大串駅逓所設置。
1908年(明治41年) ●4月、岐阜より開拓者が移住。同年8月までに21戸が入植する。現在の国道40号線にあたる道路が開通するもやがて頽廃し事実上放棄される。
1909年(明治42年) ●咲来小学校所属物満内特別教授所(のちの筬島小学校)開設。上物満内地区にも入植が始まる。
1922年(明治45年) ●物満内地区ではこの年までに200戸程度の入植者が住む。
1922年(大正11年) ●物満内地区「人口340人」との記録あり。11月8日、筬島駅開業。
1931~34年(昭和7~10年) ●筬島地区の人口300人前後で推移。
1945年(昭和20年)10月28日 ●疎開者・引揚者4戸12人が東京の大田区・鎌田区(現・世田谷区)より入植。以降1955年(昭和30年)までに計7戸が入植する。
1948年(昭和23年)6月 ●筬島地区に初めて電気が点く。
1950年(昭和25年) ●筬島地区「戸数65戸人口350人」との記録あり。
1952年(昭和27年) ●物満内地区「戸数67戸人口402人」との記録あり。
1955年(昭和30年) ●天塩川氾濫により開村以来の大洪水が発生。大凶作につながる。
1964年(昭和39年) ●筬島地区全戸に電気が通る。
1967年(昭和42年)12月21日 ●筬島橋竣工。
1972年(昭和47年)7月7日 ●集中豪雨により筬島地区の水道水が不良に。音威子府から水道水を運搬。
1973年(昭和48年)8月18日~19日 ●集中豪雨により筬島地区浸水。
1978年(昭和53年) ●3月、筬島小学校廃校。11月、砂澤ビッキが移住し、小学校の廃校をアトリエ兼住居とする。
1979年(昭和54年)12月21日 ●筬島大橋竣工。
1980年(昭和55年) ●筬島生活改善センター開設。この頃までに国道40号線音威子府〜中川間の改良・舗装工事が完了する。9月、村民約250名の協力のもと「オトイネップタワー」をアトリエ3モアから音威子府駅前まで搬送する一大行事を実施。
2003年(平成15年)4月26日 ●エコミュージアムおさしまセンター"BIKKYアトリエ3モア"開館。