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旧筬島小学校

 筬島地区への入植開始から1年となる1909年(明治42年)、音威子府村立筬島小学校の前身である「咲来尋常小学校所属物満内特別教授所」が開設し、その後2度の移転を経て1935年(昭和10年)に現在の筬島小学校が建てられました。以来、物満内地区に住む児童の教育を担う場として、また筬島のシンボルとなる施設として地域住民に愛され続け、68年間で420名の卒業生を送り出しました。元より水害が多く農地として狭隘で厳しい環境であったことに加え、昭和中期になると高度経済成長や道路インフラの整備が進み、急激な過疎化の進展に伴い児童数も減少。1978年(昭和53年)3月に筬島小学校は閉校し、その歴史に幕を閉じたかに思われました。

 解体を1週間後に控えた1978年11月23日、砂澤ビッキが校舎跡へ移り住んだことで小学校の運命は一変します。学校として、アトリエとして、そしてミュージアムとして筬島の地域を長く見守ってきた筬島小学校。度重なる改築により間取りや内装は大きく変わっているものの、当時の痕跡は今も随所で見受けられます。村内最古の公共建築物としても価値のある当館、砂澤ビッキだけでなく、さらに昔の筬島の暮らしにも思いを馳せてみていただければ幸いです。

​学校概要
教育目標
  • 個性の伸長と自主的精神の涵養

  • 知、情、意の調和的発達

  • 実践力と勤労愛好

  • 道徳心の啓培と社会性の育成

  • 健康で強健な心身の養成

児童像
  • 努力して自分を伸ばす子ども

  • よく考えて自分で行う子ども

  • 進んで働き、いやがらない子ども

  • 仲よく力を合わせる子ども

  • からだも心も強い子ども

経営の重点

  • 望ましい人間関係の確立

    • 教師と児童の人間関係を大切にし、温かい教育を行う

    • 教師相互の共通理解を図り、効率的に職務を遂行する

    • 発表力を養い積極的な学習能力を育成する

  • 道徳教育

    • 基本的行動様式(躾)の指導の徹底と定着を図る

  • 共同研究

    • ​​集合学習の実践的研究

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​校章。雪の結晶に仏法僧を記したもの。

「松浦武四郎が​筬島地区に宿泊した際に仏法僧の声を聴いた」という『天塩日記』の記述が元になっている。

​教室に置かれた校旗(撮影年不明)

校歌

鬼差岳の 気高さよ

天塩の川の 豊けさよ

緑も深き 山峡に

たてるは我らの小学校

 

古人の夢を ゆるがせし

仏法僧の 鳴く森に

学びの窓は 開かれて

明るい楽しい我が母校

 

稲穂は重き 実田に

祖先を偲び 朝夕に

遊ぶも楽し 我が友よ

学ぶもうれし 師よ友よ

(作詞・作曲 白鳥大治)

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​下の「▶︎」ボタンを押すと校歌が流れます。

※左の楽譜をもとに主旋律のみを打ち込んだものです。伴奏はありません。

​※楽譜に一部矛盾箇所があり改変しているため、実際の校歌と異なる可能性があります。

筬島小学校校歌
​校舎平面図
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​現在のエコミュージアムおさしまセンターの平面図
​(左の平面図と方角を揃えたもの)

​ 2001年時点で、敷地西側の物置や離れ家は既に存在せず、凸型の玄関も撤去されていたことが当時の写真から確認できます(現在「風の回廊」にある凸部分は、2002年の改修工事の際に小学校時代の玄関を再現したものです)。

​ また、開館に向けた改修工事の際に北側の校長住宅や南側のトイレ・水飲み場が撤去され、廊下や体育館も大幅に改築されています。

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沿革

1909年(明治42年)4月 ●教育所設置運動を起こし、咲来尋常小学校所属物満内特別教授所として開設。最初の校舎は村民私有の物置小屋を買収したものであった。

1912年(明治45年/大正元年) ●物満内教育所に昇格。

1915年(大正4年)11月 ●生徒数の増加と学校が地区の中心に無かったことを理由に、校舎を筬島金比羅神社付近に新築し移転。


1917年(大正6年) ●物満内尋常小学校に昇格。


1935年(昭和10年)10月 ●集落の発展に伴い校舎の位置が適当ではないという声が上がり、また旧校舎が腐朽し改築が必要な状態であったことから、現在地に校舎移転。


1941年(昭和16年) ●物満内国民学校と改称。


1947年(昭和22年) ●物満内小学校と改称。


1954年(昭和29年) ●屋内体育館落成。(現在のアトリエ3モア「いないいないばぁー」の場所)


1955年(昭和30年) ●天塩川氾濫により開村以来の大洪水が発生、校舎床上1mの浸水被害を受ける。10月、物満内小学校上物満内分校が開校

(※上物満内は現在の物満内川流域の地区)。当時は「上物満内開拓小学校」と呼ばれた。


1959年(昭和34年) ●上物満内分校が独立し上物満内小学校となる。


1961年(昭和36年) ●筬島小学校と改称。


1963年(昭和38年) ●上物満内小学校が物満内小学校に改称。


1975年(昭和50年) ●物満内小学校廃校。筬島小学校への統合により同校の児童が流入。


1978年(昭和53年) ●3月、筬島小学校廃校、音威子府小学校へ統合される。11月23日、筬島小学校校舎に砂澤ビッキ一家が移住。この時、筬島小学校は1週間後に取り壊される予定であった。
 

1979年(昭和54年) ●1月、砂澤ビッキが筬島小学校校庭跡地に第2アトリエ(D型ハウス)を建設。

 

1989年(昭和64年/平成元年)1月 ●砂澤ビッキ逝去。以後しばらくは遺族の住居として使われ、アトリエ3モアにて展覧会が複数回催される。

2001年(平成13年) ●7月、「砂澤ビッキ記念館構想」の審議が始まる。8月11日19日、「ビッキ生誕70年、音威子府に集う」を開催し、同事業の一環でアトリエ3モアにて「砂澤ビッキ作品展」が行われる。この際「アトリエ:午前3時の部屋」や「いないいないばぁー」の復元が行われた。

2002年(平成14年) ●8月、筬島小学校の改修工事が始まる。11月、エコミュージアムおさしまセンター完成。


2003年(平成15年)4月26日 ●エコミュージアムおさしまセンター"BIKKYアトリエ3モア"開館。

 

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